古文書解読検定

解読基礎知識

変体仮名
ひらがなの字体のうち、現在は使われていない昔のひらがなを変体仮名といいます。1900年(明治33)の小学校令施行規則により、ひらがなは一音一字に統一されたため、変体仮名は消えてしまったのです。
そのため古文書学習の手始めは、まず変体仮名の征服からです。ここでは、あいうえお順に、ひらがなのもとになっている漢字の字源(字母ともいいます)を右側に挙げてあります。
左側が、変体仮名のくずしです。
くずしの字形を何度も書いてマスターしておきましょう。「書ければ読める」はずです。
クリックすると字体が見られます
    
    
    
    
    
    
    
      
    
    
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異体字
異体字を覚えよう!

itaiji

 

漢字の読み方
 中国語の漢字は原則、読み方は一種類しかありません。ところが、日本語の漢字は、音読みが一つとはかぎりません。たとえば「修行」「行動」「行脚」の「行」は、それぞれ「ギョウ」「コウ」「アン」と読んでいます。これは中国語の読み方が、時代によって変わったため、それを受け入れた結果、いろいろな音読みが残ってしまったからです。「ギョウ」は呉音、「コウ」は漢音、「アン」は唐音で、それぞれ呉音は遣隋使以前(七世紀以前)の中国の発音、漢音は遣唐使時代(八~十世紀)、唐音は宋の時代(十二世紀)に移入されたものです。
 日本では、八百年ごろ桓武天皇が、呉音を使わず漢音で統一するように命じたため、朝廷では漢音が主流となり、今日に至るまで漢音が標準的な音読みとなっています。しかし、奈良の仏教界は呉音を用い続けたので、仏教用語は、呉音による音読みが今に残っています。一方、唐音は禅宗僧が伝えた特殊な音読みとして、今も禅宗の用語で使われています。
 わたしたちは、同じ漢字を使っているのに中国語が話せないのは、昔の中国語の発音で漢字を読んでいるからなのです。
『読めれば楽しい!古文書入門』(潮新書より転載)

 

ひらがなの誕生
 平安時代のはじめは、文学史の上で国風暗黒時代といわれています。日本最初の勅撰の漢詩集『凌雲集』、続いて『文華秀麗集』『経国集』が、嵯峨天皇の時代に編まれますが、ここには和風化した漢文が見られるものの、当時は、まだ文章経国主義の時代であり、朝廷が扱う公文書も、すべて漢字が用いられ、漢文尊重、かな蔑視の風がありました。
 しかし、『万葉集』の成立以来、和歌も流行し、はじめはすべて漢字(万葉仮名)で表記していましたが、それだと日本語の繊細な心の表現も味気ないものになってしまいます。
 もともと漢字は、表意文字であり、日本語の文章を表記するのに適していなかったのです。やがて万葉仮名は、楷書から行書、さらに草書と字体がくずされ、草仮名が生まれることにより、字母の漢字とまったく違う形をしたひらがなが誕生していきます。
『読めれば楽しい!古文書入門』(潮新書より転載)

 

「まな」(漢字)派と「かな」派の対立
 漢字派―男、かな派―女という構図を崩したのは、醍醐天皇時代の左大臣を勤めた藤原時平(871~909年)でした。このときの右大臣は菅原道真であり、当時、宮廷一の文化人として、その漢文の素養は及ぶ者がおらず、漢字派の頂点に立っていました。
 それに対して時平は、女性との和歌のやりとりなどで仮名を積極的に用い、かな推進派の頂点に立っていました。二人は政治的にも対立していましたが、時平の勝利に終わり(菅原道真は大宰府へ左遷された)、仮名普及の道を開く結果となりました。
 道真失脚の四年後、905年に編まれた最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』は、草仮名を使用しています。それでも『古今和歌集』には、皇族や上流貴族の歌はほとんどありませんでした。しかし『後撰和歌集』(951年)からは、多くの貴族の和歌が収められており、貴族たちも、いつしか勅撰集に自分の和歌が載ることを誉れとするような時代へと進んでいったのです。
『読めれば楽しい!古文書入門』(潮新書より転載)