古文書解読検定

「まな」(漢字)派と「かな」派の対立

 漢字派―男、かな派―女という構図を崩したのは、醍醐天皇時代の左大臣を勤めた藤原時平(871~909年)でした。このときの右大臣は菅原道真であり、当時、宮廷一の文化人として、その漢文の素養は及ぶ者がおらず、漢字派の頂点に立っていました。
 それに対して時平は、女性との和歌のやりとりなどで仮名を積極的に用い、かな推進派の頂点に立っていました。二人は政治的にも対立していましたが、時平の勝利に終わり(菅原道真は大宰府へ左遷された)、仮名普及の道を開く結果となりました。
 道真失脚の四年後、905年に編まれた最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』は、草仮名を使用しています。それでも『古今和歌集』には、皇族や上流貴族の歌はほとんどありませんでした。しかし『後撰和歌集』(951年)からは、多くの貴族の和歌が収められており、貴族たちも、いつしか勅撰集に自分の和歌が載ることを誉れとするような時代へと進んでいったのです。
『読めれば楽しい!古文書入門』(潮新書より転載)